パパちゃん思い出し記

法事は昨日でしたが、今日で丸2年です。

早いなぁとはもちろん思うのですが、たまーに「あれ、まだ2年だっけ?」と親不孝な事を感じることもあります。



というわけで、今日はヲタクはちょっとお休み。思い出に浸ります(笑)。

痛さ全開です。





父は2007年4月20日、まだ夜が明けない時間に亡くなりました。死因は肺がん、59歳と10カ月でした。

16日に、いつもは痛くても我慢していた父が朝起きれなくなりました。

「救急車を呼んで。」

急いで病院の救急部に電話をして診察をお願いしました。私は職場に連絡して午前休みをもらい、弟にも連絡。

救急車で病院に行ったものの、診察してもらえたのはお昼過ぎでした。

そのとき主治医は「これまでよく頑張ったけれど。」と言いました。

びっくりして先生を見ると「あっ在宅でよく頑張ったね。」と言いなおしました。それが、すごく気になってました。

それでも午後から仕事に行かなきゃだったので、「ごめんね、行くね。」と病院をあとにしました。

仕事が終わり、家で夕飯を食べ終えてから、母から話がありました。

「ここ2・3日がヤマだって。延命治療を家族で話しておいてと言われた。」

泣くでもなく、「あぁ先生が言ってたのはコレなんだ。」と思いました。


翌日職場の人に事情を話し、お昼休みを長くもらったり、いつ連絡がきても良いように配慮してもらいました。

完全看護の病院でしたが、もう起き上がって一人で食事が出来ないので、家族がサポートして良い。と言われ、毎日昼は病室で父と昼ご飯を食べました。

19日、病院に着くなり先生から呼び出し。「昨日の夜からかなり危険。延命治療の結論が欲しい。」と言われました。

3人の結論は「辛い思いはさせたくない。モルヒネで痛みを和らげてほしい。」と伝えました。

私は仕事が休みの日、弟は「免許の更新が迫ってる」と有休を取ってました。

仕事が忙しく、現場に泊ることが多く帰ってこれたとしても終電になってしまう弟が、この日は休み。おかげで、3人で病院に行けました。

父は昼ご飯も夕飯もろくに食べられず、ゼリーやジュースなどしか口に出来ない状態。

私たちは帰宅し、ちょっとボーっとしていた23時頃に電話が鳴りました。

急いで病院へ。制限速度60キロの道を120キロ出しました。もし警察に捕まっても、事情を話し何とかしてもらおうと思っていました。

病院につくと電話をくれた看護師さんが「ごめんね。大丈夫だよ。落ち着いてるの。私が焦って先走っちゃった。」と言ってくれました。

慌てて病室に入る私たちに、辛そうに息を切らしながら「連絡がいったんだね。」と父。

看護師さんが私たちに言ったように説明すると、「うん。なんで俺も『こんなときに家族がいないんだ』と思ってた。」と言いました。

私たちが呼ばれたことで、父は自分が危ないことがわかったようです。

「お母さんと話がしたい。2人は外に出ててくれる?」

そのときに「葬式はこうして欲しい。」、「自分が死んだことは○○さんと○○さんにだけ伝えて。」などと言ったみたいです。

今度は私たちが枕元に呼ばれました。弟に「男はお前ひとりだから、しっかりお母さんとお姉ちゃんを守りなさい。でも、ずっと家に居ろってことではないよ。適度に遊びなさい。」と。

「最後はお姉ちゃんね。」もうこの時点で涙が止まらない私。でも、父からは意外な一言でした。

「お姉ちゃん、男は顔だけじゃないよ。まぁ解ってるとは思うけど・・・。」

それだけかい!とつっこみたくなりました。後で聞いたら、弟もつっこみたかったみたいです。

そこからしばらくは容態も落ち着き、飲み物を飲んだり、はぁはぁと苦しそうにしながらも話せる状態。

看護師さんが簡易ベッドを入れてくれて、順番に仮眠をとりました。

ここでまた父のありえない一言。「やせなさい・・。(母と)2人とも・・。」

なんで今それを言うかなぁ。って感じでした。

しばらく眠っていた父の容態が変わったのは突然でした。

苦しそうにし始めたと思ったら「あぁお別れかな・・。さよならかな。」と言い、おかしくなりました。

先生の説明でありましたが、モルヒネをうつと精神がちょっとおかしくなって訳のわからないことをし始めたりすることがあるそうです。

父は急に「トイレに行きたい。」と言ったかと思えば「痛い。俺にさわるな。」と言ったり、その度に私たちは全部相手にしてくれる看護師さんに「すみません。」と謝ってました。

「お別れかな。」の言葉を聞いてからどのくらい経っていたのかは分かりません。

規則的に続いていた呼吸が、スーッと止まりました。また息をすると思っていたのに、息を吸わない。

看護師さんは脈を測っていたので気付かない様子。父の手を握っていた私と弟が同時に言いました。

「呼吸、止まった。」

看護師さんは「すぐ先生を呼んできます。まだ脈はありますから。」と病室を出ました。

私と弟は夜の病院ということも忘れて大きな声で「お父さん!」と呼び続けました。母は少し離れたとこにいました。

先生に話していた通り、延命の処置はせず父は亡くなりました。


それからはバタバタと忙しい一日。

通夜・葬儀の準備、親戚を駅まで迎えに行ったり・・。

遺影はその年の1月、私が撮った写真になりました。

体調が良かった時に、自分でスーツに着替え「写真を撮って欲しい。」と頼まれました。「誕生日(6月)までは生きられそうもない。覚悟はしておきなさい。」とも言われました。

何枚かあるうちの1枚だけ、パソコンの別ファイルにあったのでそれにしました。


何ででしょうか?どんなに動いていても、思い出した訳でもないのに涙が止まりませんでした。

弟は「今度は何で泣いてるの?」と「ちゃんとやらないと、お父さんとお別れできないよ。」と言ってくれたり、ズッコケ男道を歌ってくれたりしました。

通夜・葬儀は、正直よく憶えていません。父が母に言った通り、家族・親戚だけですませました。

母は「お父さんが骨になっちゃった。」と泣いていましたが、私はそれが実感がなくてボーっと見ていました。



四十九日までは、写真を見るだけで泣き、入院していた病院を見て泣き、仏壇やお墓にしがみつきたくなる衝動にもかられました。

お盆以降はそういった感情の起伏も激しくなくなり、淡々と毎日が過ぎていってます。



父の遺言?は守られていません。痩せてないし、イケメン好きだし。

今でも思うのは、「一緒に結婚式で歩きたかったなぁ。」とか「孫を見せたかったなぁ。」とかそういうこと。

やっぱり娘だもん。そういうの、たぶん父も望んでたんじゃないかなぁ。

それが出来なかった私は、やっぱり親不孝もんだと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいです。


でも、もう少し『おおくらさんに夢中♡』でいさせてね。


また、思い出に浸ることがあるかと思うけど、とりあえずおしまい。